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デイ・バイ・デイ

     

 デイ・バイ・デイ day by dayとは、日ごとに思うこと、書物と芸術とへの想いを、つれづれのままに書く雑記帳です。日本と世界の時処位、文明の来し方、行き方に関心があります。(y.shimizu 2006.10)

今西錦司「生物の世界」
バッハ「無伴奏バイオリンパルティータ」
末石冨太郎「都市環境の蘇生」
クリムトの「風景画」
ヘルマン・シェーア「ソーラー地球経済」
安田喜憲「森と文明の物語」
サン=テグジュペリ「戦う操縦士」
金子みすゞ「童謡集」
沼田 眞 岩瀬 徹「図説 日本の植生」
グレン・グールド「モーツアルトのピアノソナタ集」
白川 静「常用字解」
原ひろ子「子どもの文化人類学」
レイチェル・カーソン「沈黙の春」
白川 静「字訓」


 今西錦司の「生物の世界(1941年)」は、ものごころついて以来わたしの座右の書です。
 「序」、「相似と相違」、「構造について」、「環境について」、「社会について」、「歴史について」と五章から成りますが、就中「歴史について」は、進化論であり文明論でもあるものです。
 その一節につぎのような文があります。

 「そもそも生物が食欲とか性欲とかいわゆる本能生活以外に生活はないもののように考えるのはまちがいである。花はなぜ美しいのか、蝶はなぜきれいなのか(略)。そこにいわば生物の世界における芸術といったようなものが考えられはしないであろうか。そこにいわば生物の世界における文化といったものがあるのではなかろうか」

 これは「蝶はなぜ美しいのか」という問いに対する回答です。つまり「蝶が自分からキレイになろうと望んだから」なのだというのです。ダーウィンの進化論は、突然変異と自然淘汰からできていますが、今西進化論は、棲み分けと種の主体性からできています。そして美も芸術も進化の一つであり、(個のムレである)種は、進化したいときに進化するのだといっています。

 そこには「われ思う、ゆえにわれ在り」という個の意識とともに、種の意識があるのだと想定されています。この無意識という名の意識は、ユングにもあらわれます。
 スイスの分析心理学者ユング Jung は、フロイト Freud が意識を意識と無意識を分けたのに対し、無意識をさらに個人的無意識と集合的意識の二つに分けています。集合的意識は個人でなくたとえば人類という共通の基盤で保持している意識のことで、人が過去に体験のない記憶などをもっている現象は、この発現によるといいうのです。

 結局のところ、進化とは形態の変遷のみをいうのではありません。生物は、進化を止めることのできない生き物であると定義してもよいでしょう。いったん形態進化の頂点にいたった生物は、蝶にかぎらず、美というかたちでさらなる進化をしようとするのです。人もおなじに違いありません。文明もまた本来、均衡のとれた美を追求するものなのかもしれません。するとわたしたちはまだその一里塚にすらいたっていないようです。(06.10.03)

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バッハ「無伴奏バイオリンパルティータ」

 バッハは、無伴奏曲といわれるジャンルの曲を多く遺しています。バイオリンソナタ3曲、パルティータ3曲、チェロ組曲6曲など、またピアノ曲は、ソナタ、パルティータ、組曲などかなりの曲を数えます。

 有名なシャコンヌ Ciaccona は、無伴奏パルティータ第2番ニ短調の第5楽章ですが、無伴奏バイオリン曲は、演奏者に和声と低音部、高音部との二人分の技術を要求するために、バイオリニストの試金石ともいわれています。誰もが一度はレコーディングしてみたいと思うようです。
 それだけに、弾く人によってこれほど大きく印象のかわる曲もないでしょう。演奏者だけでなく楽器でもかわります。ただそのときにバロックの時代としてかならず復元しなければならない要素が、一つだけあります。
 それがポリフォニー(複旋律音楽)です。

 ポリフォニーの本質は、ホモフォニー(和声付単旋律音楽)と対立するもので、右手と左手、高音部と低音部などからなる旋律が、二つなり拮抗して流れていかなければなりません。たとえば低音部が弱く弾かれれば、通奏低音とかわりありません。
 それを再現しているのは、大家といわれるバイオリニストたちではありません。バロックバイオリンのレイチェル・ポッジャー Rachel Podgerが、その有為な一人です。彼女はシャコンヌを13分36秒で弾いていますが、二つの旋律はほぼ完全に分離して、互いに相手を呼び合います。その聴き手の聴き分けは、意識せずして自然であり、他の多くのバイオリニストではみられなかったものでした。

 「指一本触ることすらできない荒んだ少年の心を、もしつかむことのできる音楽があるとしたら、その音楽は、この無伴奏のシャコンヌだろう」といっていた人がいますが、そのとおりだと思います。そしてその事実は、ポリフォニーとしてはじめて正しく成立するのではないかと思います。

 バッハを境に、その後の音楽家たちはホモフォニーへとおおきくかじをきりました。モーツアルトもベートーベンもホモフォニーの作曲家です。それは音楽が新しい時代へと花開く契機でしたから、是とすべきことでした。それでもホモフォニーがもたず、ポリフォニーだけがもつ永遠性がここにはあるのだと思います。
 河合隼雄は「人には体と心ともうひとつ魂がある」といっています。心に触れるだけでなく、魂に触れていく音楽としてポリフォニーが、そしてバッハの無伴奏があるのかもしれません。(06.10.04)

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末石冨太郎「都市環境の蘇生」

 もう一部の公共図書館にしかないようですが、末石冨太郎「都市環境の蘇生(中公新書)1975」は、環境問題における嚆矢の一冊というべきものです。4半世紀前の出版にもかかわらず、環境問題という本質を、ためらいのない筆致で書いています。

 その首唱する骨子は、「環境容量」といい、世界を自然界と都市界(人間界)に分け、「人間が利用する有害化学物質は、無限に人間界に滞留すべき」と断じています。そして自然の環境容量はゼロとし、人間界から自然界へ「環境を閉じる」ことを求めています。人と自然の棲み分けにほかなりません。

 滞留のために物質を循環するのがリサイクルであり、循環するのでない手法が千年製造物・建造物(無限の耐性)です。どちらも「エンドオブパイプ(自然界への出口)」への放出を前提としません。

 ゼロエミッションと似た概念にみえますが、そうではありません。1994年に国連大学が提案したゼロエミッションはともかく、現在のそれは「廃棄物ゼロ」という事業所のゼロエミッションであり、手法が問われません。環境容量論は、人間界から自然界へ放出しないという手法そのものを順守しようとするのです。

 循環型リサイクル社会の究極は、たとえばし尿を肥料とし、その肥料で育てた作物を人が食べ、再びし尿として循環するという、江戸時代の典雅なならわしのようなものでしょう。
 耐久性ある「もちのいいもの」の究極は、一枚の着物が洗い張りなどを経ながら、何世代もの使用に耐えたという「着物文化」に象徴されます。体型・身長をとわない着物だからそれができたのでしょう。桧の校倉造りの正倉院宝庫が1200年の歴史をもち、ローマのコロッセウムが2000年の威容を誇るのも、人間界に滞留した大いなるサンプルです。

 自然の環境容量をゼロとする、この環境容量論の本質が停滞し欠落したら、地球は人口の増大に比例して汚染が進行するばかりです。4半世紀をすぎた今日でもその事情はすこしもかわることはありません。

 したがって都市からの出口(エンドオブパイプ)である自然は、つねに人間の最後の砦であり、最悪でも有機物のわずかな排出だけが、かろうじて許されるものです。そのために、できるだけ生分解性のよい有機物を原料とする物質文明を築いていくべきだという命題が立ちます。

 地球温暖化物質の低減から排除へ、化石燃料から代替自然エネルギーへという命題も、同じ理由にもとづいて立ちます。今ある地上の資源と化石燃料の採取はゼロに、廃棄物質と熱量の自然への放出もゼロにというのが、人間のとるべきロードマップにほかなりません。

 環境容量論は、一時期「環境許容量論」と誤用されたこともあるようですが、環境に排出物許容量はありません。だからゼロです。「三尺流れれば水清し」ということばは、人口の少ない、急峻で瀬の速い日本の川の、200年も昔の話です。(06.10.06)

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クリムトの「風景画」

 グスタフ・クリムト Gustave Klint (1862ー1918)は、19世紀末のウィーンで活動した画家です。後期印象派から象徴派へと移りかわる時勢に、ウィーン分離派またユーゲントシュティル(青年の様式)と呼称された、ウィーン世紀末芸術を代表する芸術家でした。エロスをテーマとしたと評されますが、そうばかりではありません。

 世紀末ウィーンは、開国日本からの浮世絵や琳派などが一世を風靡していました。クリムトの女性画にあしらわれた金箔も、この日本趣味からの影響があります。

 ダナエ Danae やキス Der Kuss、アダムとイブ Adam und Evaなど、クリムトの著名な女性画は、そうした重層的な背景から生れてきたのです。

 女性画にくらべてクリムトの風景画はあまりみる機会がないかもしれません。ところがその風景画が、女性画を陵駕するかもしれない出色の作品ばかりなのです。

 だいたい見下ろすか見上げるかという独特の視線から描かれ、空というものがほとんどありません。視線の中心も、地面だったり木立と枝葉だったり水面だったりします。キャンパスも正方形です。

 印象派の風景画に慣れ親しんでいると、クリムトの風景画はその観念をこわします。

 視線のせいか、構図は風景でありながら静物画のようです。あるいは人物画のようです。ディティールにこだわり、木々や草花は一本ずつ、個性をもって描かれます。色ごとに光り、同じ色でも濃淡ごとに異なる輝きを放ちます。

 したがって森も木立の集まりでなく、一枚ずつの葉から成るのです。存在そのものが饒舌なのです。地面もただ地面でなく、木々と草花がそれぞれの場所を征服しています。カサコソと人の踏み音すら聞こえてきそうです。

 絵画にもポリフォニーに似たことが起こるということを知ったのは、このクリムトの風景画でした。そこで風景はたとえばソナタの様式として存在するだけです。

 それぞれ自分の光をもつ静物が、あちこちから自分だけの彩りを奏でているのです。それが一枚のキャンパスに無慮大数あつまってムレとなり、ムレとムレが対立して同時に調和するのです。そしてなにげなく一幅の画となっているのです。静物の対位法といったらいいでしょうか。

 クリムトの風景画は、ながくみて飽きることがありません。(0610.07)

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ヘルマン・シェーア「ソーラー地球経済」

 「ソーラー地球経済(ヘルマン・シェーア Herman Sceer 岩波書店2001年12月)」は、ひとことでいえば、「必要なエネルギーと資源をすべてソーラーでまかなうこと」を実証しようとした本です。わたしはその実証に成功していると思いますが、異論もあるかもしれません。

 ただ異論もその可能性を完全に否定することはできないでしょう。すると次世代へのサステナビリティ(持続可能性)として、わたしたちが推し進めなければならない目的とするところに適うことになります。

 ひるがえって、可能か不可能化という判断はけっして科学技術の革新に負うのではありません。ソーラーの活用については、今後の技術開発に期待するところもありますが、すぐに取り掛かれるところも多種多様にあります。その間隙にある経済社会の逡巡は、ひとえに現在のコストパフォーマンスと、現在の産業構造の擁護というところに理由の本質があります。

 けれどもその理由は現在のもので、次世代と未来を語るときには自然と捨象されてしまいます。

 現実的また実際的判断とするものは、結局、現在の受益の機能構造に依存するものです。したがって次世代と未来へのどんな提言も、科学的客観性に欠け、現実性が乏しいとして一蹴されてしまいます。空論といわれ、理想だ夢物語だといわれてしまいます。

 現在のモノサシで現在の人類の幸福のみを追求すれば、現在の仕組みがベストになります。ベストになるという理由だけでそうなります。それは修正の余地はあっても仕組みそのものを維持することが必須という結論が、先にあるからにほかなりません。

 その視点のみでは、化石資源のくびきからは永遠に脱却できません。そして枯渇した時点から世界の崩壊がはじまります。

 この本の秀逸さは、化石資源の本質を、産業構造と産業連鎖、配給網と巨大プロジェクトとみなし、ソーラー資源のそれを、ちょうどその逆、配給網を要しない分散型ないしスタンドアローンなエネルギー(家庭内また地域内・事業所内ソーラー発電)と、連鎖のより少ない産業構造となると断じている点です。そしてそれを18世紀の産業革命に比肩する大変革としています。

 また、すべての石油化学物質は植物化学へ、金属物質の大部も植物化学へというテーゼが同時に提唱されます。これもまたソーラー資源の活用にほかなりません。したがってエネルギーも物資もある意味で農業を中核とする産業に転換し収斂していくことになります。

 人類の文明はもちろん農業をベースに発生したものです。大河のほとりに立ったのも必然のなせるところでした。次世代と未来は、わたしたちのこの文明をふたたび水と緑の大地へと回帰させることができるかどうかにかかっているようです。

 ちなみにそれは文明から利便性を放棄することではあんりません。節約をいうものでもありません。再生可能エネルギーと再生可能原料資源からつくり出したものは、たとえ大量浪費しても、地球全体のエネルギー・資源はバランスして、けっして浪費にはならないからです。(06.10.08)

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安田喜憲「森と文明の物語」

 著者は自然科学と人文科学を行き来する学際的な「環境考古学」を提唱しています。「森と文明の物語は花粉分析と先端考古学を駆使し、森と文明の緻密な関係を明かにすることで、もう一つの世界史を描きだしています。

 文明は森林を破壊することで成長していくというのが基本の命題ですが、その本質は、産業革命以前の人間がつかうエネルギーと建材が、唯一木材であったという当然の事実に立脚します。森林破壊とは木材の大量消費という文明の側の因果にほかなりません。

 それはチグリス・ユーフラテス河畔に生れた最古の文明メソポタミアからはじまっています。5000年前の楔形文字に記録されたウルクの王ギルガメッシュは、現在のレバノンからシリア、そしてトルコの地中海沿岸にひろく分布していた、当時樹齢6000年といわれ、硬くまた芳香を放つレバノン杉を大量に伐採してウルクの王宮と王都を築きました。花粉の化石からみるレバノンスギは、この時期急速にその出土量を減らしています。かわって出現してくるのがオリーブの花粉です。

 これらの考古学的知見は、シューメールの伝説の王ギルガメッシュが神話でなく歴史の人物であり、レバノンの森の神フンババは、侵略をうけて滅んだその森と森の民の仮託であったことがわかります。

 また、ギリシャ文明の祖であったクレタ島を中心とするミノア文明もまた、文字通り森の文明であったことが、出土する花粉の変遷でわかります。この文明はとくにクノッソスの木造四階建という壮麗な王宮で知られていますが、その木柱は上部が太り下へ痩せていきます。エンタシス様式というギリシャ神殿の大理石のふくらみをもつ円柱も、そのルーツはクノッソス王宮の木柱の木ならではの自然なふくらみに由来するものともいえます。日本の法隆寺など木造建築の柱のエンタシスは、もし古代ギリシャに由来するなら、エンタシス様式は木から大理石へそして再び木へと様式の復興をしていることになります。

 そのクノッソスとミノア文明は紀元前1500年頃衰退していきます。近隣島の火山噴火と津波といわれていますが、直接的にはクレタ島全域の森林資源を切り尽くした結果でした。ナラ属の樹木の花粉はそのころ急激に減少し、全盛期の60-70%森林率が10%までになっています。現在のクレタ島もかっての緑の島ではなく、ことにクノッソス周辺は見渡すかぎりのハゲ山であるといいます。

 それはその後に興隆したギリシャ本土も同様です。ミノアに代わったミケーネ文明は、ペロポネソス半島の中央部の恵まれた森林を背景に発展しました。しかしそれも紀元前1200年ころには衰退していき、北方にいたギリシャ人が南下してペロポネソス半島に定住しギリシャ文明を築きます。

 ギリシャ文明は多くの足跡を残しながら、紀元前四世紀、海軍国家アテネと陸軍国家スパルタが派遣を争ってスパルタが勝利、スパルタを破った第三の都市国家テーベの覇権、ついでアテネ・テーベ連合軍を打破した北方のマケドニアが最終的な覇者となりました。そもそもの戦闘の遠因と背景には、ギリシャ北方の森林の争奪があり、時のマケドニアは膨大な森林資産を内包する世界有数の森の宝庫でした。

 逆に当時のギリシャ本土は、すでに今日ある岩場だらけの不毛の土地と化していたのです。オリーブはその不毛の土地の産物であり、なにより油糧植物として商業に供せられていたもので、穀物が採れなかったために必然的に生まれた産業でした。覇権2年後の紀元前336年、マケドニア王となって後のギリシャ世界をインドまで拡大したのが、有名なアレクサンドロス大王です。ギリシャ世界は世界へ拡大するとともにギリシャ本土では衰退していきます。

 西欧世界は、日本とことなり森は平地とゆるやかな丘にあり、一度伐採されると復興は容易ではありません。その後の西欧世界も森林資源は、国家勢力の趨勢を決めていくものでした。それが異なる局面を迎えたのは、産業革命によるエネルギーの転換と鉄の登場にほかなりません。

 花粉分析によるイギリス本土は、10世紀ころまではオークの混合林が全土の60-70%を占めていましたが、16-18世紀には樹木が全土の10%(森林率10%)という状況を呈しています。現在いくばくか回復しているのは植林の成果にほかなりません。ドイツの有名な黒い森、シュバルツヴァルトの森は、ここ100年の間に植林されたモミやトウヒの森です。エネルギー採取により破壊される前の森は、ヨーロッパブナやナラの落葉広葉樹の明るい森でした。

 花粉分析がわたしたちに教えてくれるものは、この広範な世界のもう一つの歴史です。それは文明の歴史であり、同時に動いている森林破壊の歴史です。

 現在、世界の森林率はおよそ27%、高い森林率を誇る地域は、パプアニューギニア90.7%、カメルーン75.5%、中央アフリカ75.0%、ガボン74.3%、ザイール74.1%、フィンランド68.5%、マレーシア67.6%、日本66.4%、スウェーデン62.2%などとつづききます。それぞれ植林の努力もありますが、日本の場合は国土に手をつけることのできない急峻な山地を多く擁し、自然、圧倒的な森林がじねん(自然)のままでいられたという幸運な環境があったことを忘れてはなりません。(07.03.26)

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サン=テグジュペリ「戦う操縦士」

 「星の王子さま」で有名なアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは「南方郵便機」「夜間飛行」「人間の大地」など、飛行士であった自身の体験をもとにいくつもの傑作を書き残しています。

 なかでもわたしの忘れがたい一冊が、この「戦う操縦士」です。忘れがたい本というのは、言うはたやすく現実には多くはない感触です。

 なんどもくりかえし読む本もありますが、それとはちがいいます。学術書ならいざ知らず、小説でいくども読み返すのはそれがアミューズメントだからです。アミューズメントはその場その場の楽しみですから、いずれ忘れてしまい、それでもかまいません。

 小説で忘れがたいということが起こるのは、そこで出会った、核とになるいくつかのシーンが、刹那にこころに焼きつくからです。そういうものは一生忘れるということがありません。  「戦う操縦士」の場合は、次のようなシーンでした。


-----私には ひとつの大きな愛の思い出がある。母は私たちにこう言ったものだ。「ポーラが自分にかわっておまえたちみんなにキスをするように書いてきましたよ・・・・・・」そして母はポーラにかわってみんなにキスをするのだ。

-----「ポーラはぼくが大きくなったこと知ってる?」
-----「ええ、もちろん知ってますとも」

 ポーラはなんでも知っているそうな。
----「大尉殿、敵が撃ちはじめました」

 ポーラよ、敵がこちらに向けて撃ちはじめたよ! わたしは高度計をちらと見る。650メートル。雲は700メートルのところにある。だが雲の下の世界はブルーだ。すばらしいブルーだ。ところどころ雨が降っている。ブルーの雨・・・・・

-----「ひどくなってきましたよ、大尉殿」

 ポーラ、きこえたかい、ひどくなってきたそうな。しかしわたしは、この眼の前のブルーの夕暮れに驚かずにはいられない。それほど異常で、色はものすごく深いのだ。

-----「ジグザクコースをとってください、」大尉殿!」

 ポーラ、これは新しい遊びだよ! 右をひと踏んばり、左をひと踏んばり、そうやって射撃をかわすのさ。樹から落ちて、こぶをこしらえたことがあったっけ。あなたはたぶん、アルニカチンキの湿布で手当てしてくれたんだね。ものすごくアルニカチンキが必要になるにちがいない。それにしてもほら・・・・・このブルーの夕暮れのみごとなこと!


 第二次世界大戦下、ドイツ軍戦車部隊を探査するために危険地帯を飛んだサン=テックス自身のドキュメントです。

 地上からの集中放火をジグザグ飛行でさけながら、手足は縦横に動き、精神は幼児期の回想へと落下し、さらに眼前に展開する空の底抜けのブルーに目を見張る・・・・・相反するいくつものシチュエーションが同時に進行していくなにげな描写は、まるでポリフォニーのようです。

 確かなことはポーラの存在です。5才のときにすでに去っていて顔すら思い出せないチロル生れの家政婦ポーラは、このとき、サン=テックスにとって全能のポーラでした。

 おそらく誰にも一人のポーラがいます。人によっては愛犬であったり、こましゃくれた子猫であったり、昔に引っ越していった隣人の子どもであったりします。おしゃべりであったりまったく無口であったり、人を困らせたりいきなり機嫌を損ねたりします。そうしてたえず替え難い存在でありつづけます。(07.03.27)

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金子みすゞ「童謡集」

  大正の童謡詩人金子みすゞの詩は、「私と小鳥と鈴と」がもっとも知られた作品です。26歳の薄幸な生涯でしたが、その詩はそうした経緯をつきぬけたところに佇立しているようです。

〜私と小鳥と鈴と〜

私が両手を広げても
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のように
地べたを速くは走れない。

私がからだをゆすっても
きれいな音はでないけど
あの鳴る鈴は私のように
たくさんの唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私
みんなちがって、みんないい。

 「みんなちがって、みんないい」という有名なフレーズは、あちこちに碑となって、また刷られては壁に張られています。
 たくさんの意味をもっています。たとえば「ひとは平等ですからどんな差別もなりません」、「ひとを大事にすることはわたしを大事にすることと同じです」、「ひとはみな自由であり、ひととして尊重されなければなりません」というような意味です。

 ただそれだけではなく、その意識のおくそこにあるものは、世界の不条理をみつめながら、世界をつよく肯定するという、いわば肯定の美というべきものです。透きとおった慈愛とかをこえていく広大な精神で、それは、「土」という詩にもあらわれています。

〜土〜

こっつん、こっつん
打(ぶ)たれる土は
よい畠になって
よい麦生むよ。

朝から晩まで
踏まれる土は
よい路になって
車を通すよ。

打たれぬ土は
踏まれぬ土は
要らない土か。
いえいえそれは
名のない草の
お宿をするよ

 ひとの自然に対する慈しみが、ポロポロこぼれてくるようですが、それだけでは納まりきれない精神の奔流がかいまみられます。すべての内面にある生命、感情、慎み、存在に対する感受性といったものが、瞬時にあふれて辺りを覆っていくようです。なにかを視るという行為が、人の本質をあらわにする行為であることが分かります。

 金子みすゞは、短い生涯に500編余の詩を書き残しています。われわれがどこからきて、これからどこへいくのかという想念にとらわれたとき、立ち止まって、いちどは読んでみる価値のある作品たちです。(07.03.28)

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沼田 眞 岩瀬 徹「図説 日本の植生」

 植生とは、植物の群落を全体的にとらえようとするものですが、その成立は気候要因に支配されます。要因には熱帯から極地へと緯度によって変化するもの(温度要因)、乾燥地帯から湿潤地帯へと変化するもの(乾湿度要因)とがあります。この縦軸と横軸を座標軸として組み合わせると、植生の分布を支配する気候帯が決まってきます。

 日本は乾湿度要因からは湿潤気候帯にのみ属し、温度要因は、南から北へ亜熱帯・暖温帯・冷温帯・亜寒帯と4つの気候帯に分かれます。植生帯はそれに対応して、亜熱帯広葉樹林帯・暖温帯常緑広葉樹林帯(照葉樹林帯)・冷温帯落葉広葉樹林帯・亜寒帯常緑針葉樹林帯とに区分されます。

 植物群落は、自然状態では一定の組成や構造へ達して安定しますが、この移り変りを遷移といい、安定した状態を極相といいます。また極相に対して遷移と途中にあるものを途中相といいます。

 一方自然環境は、垂直分布によっても変化しますから、以上の植生帯を平地のものとすれば、丘陵地は暖温帯常緑広葉樹林帯(照葉樹林帯)、山岳地は冷温帯落葉広葉樹林帯、亜高山地は亜寒帯常緑針葉樹林帯、高山地は平地にない寒帯常緑針葉低木林となります。実際は垂直分布はもう少し複雑で、地域の上部下部で植生に差異があります。

 ともあれ日本の植生は、その典型である極相をもって示されます。ただそれは山地の群落などの場合は現状がそのままあらわしていますが、平地の場合はかねてから破壊され、本来あったはずの歴史的植生ということになります。

 奄美大島以南の南西諸島および小笠原諸島とされる亜熱帯広葉樹林帯の極相は、スダジイ(ブナ科シイノキ属)、タブノキ(クスノキ科タブノキ属)、イスノキ(マンサク科イスノキ属)、オキナワウラジロガシ(ブナ科コナラ属)などですが、木生シダ類やつる性植物などを交える混合林で、亜熱帯の特徴を示しています。

 南西諸島ではスダジイ林、オキナワウラジロガシ林などが代表的な極相林です。亜熱帯ならではのノヤシ(ヤシ科ノヤシ属)の群生もみられます。

 小笠原諸島ではシマイスノキ(マンサク科イスノキ属)、ヒメツバキ(ツバキ科ヒメツバキ属)の群生林がみられます。その混合林も多く、南西諸島のブナ科、クスノキ科の植物は欠くかまたは少なくなっています。

 暖温帯常緑広葉樹林帯(照葉樹林帯)は、日本列島の高山を除く関東平野から西日本一帯に分布する植生で、照葉樹林と呼ばれる常緑広葉樹を極相とします。

 スダジイ(ブナ科シイノキ属)、アラカシ・シラカシ・アカガシ・ウラジロガシ(ブナ科コナラ属)の群生、クスノキ・ヤブニッケイ(クスノキ科ニッケイ属)・タブノキ(クスノキ科タブノキ属)の群生、ヤブツバキ(ツバキ科ツバキ属)、イスノキ(マンサク科イスノキ属)の群生がみられます。

 関東から西日本一帯にみられる神社林がこれらの群生の典型ですが、ふるく縄文時代から、各地の平野はこれらの照葉樹林帯に覆われていました。その典型的な極相はスダジイ林ですが、途中相としてクロマツ(二次林)→タブノキ→スダジイと遷移します。海岸ではタブノキ林が極相となることもあるようです。

 冷温帯落葉広葉樹林帯は、中部山岳地帯から東北・北海道中西南部一帯に広がるブナ(ブナ科ブナ属)林、ミズナラ(ブナ科コナラ属)林を極相とする植生帯です。太古はくまなく広大なブナ林などに覆われていましたが、今日その威容をみることのできるのは白神山地など限られてしまいました。ミズナラは極相の一つですが、ブナへの途中相でもあり、シラカバ(カバノキ科カバノキ属)→ミズナラ→ブナと遷移します。

 亜寒帯常緑針葉樹林帯は、北海道・東北から中部にかけての亜高山帯山地と北海道の東部一帯で、典型的な平野部の極相は、北海道東部のトドマツ(マツ科モミ属)林、アカエゾマツ(マツ科トウヒ属)林です。山地ではそれらにくわえエゾマツ(マツ科トウヒ属)林も群生します。

 途中相としてダケカンバ(カバノキ科カバノキ属)、オオシラビソ(マツ科モミ属)、シラビソ(マツ科モミ属)が群生し、亜高山帯山地では極相する場合もあります。知床半島の中腹から上に群生しているのはダケカンバ林です。

 わたしたちはたいてい動物の名前はよく知っています。それが魚介類ですと知らないものが少し増え(食卓のせいです)、蝶とかその他の昆虫のように種類の多いものになると知らないものは相当になります。それが植物ですと、野菜とか花卉・観葉植物とか、また公園樹とか建材樹木とかは、わりと知っていて、鎮守の森や里山、山岳地帯の樹木や草木の名称はほとんど分からなくなります。

 そもそもひとは太古、森にいたのです。森は安全と食物を提供してくれ、寒暖から心身を護ってくれる特別な場所でした。その樹木の種名ばかりでなく一本いっぽんにすら名前をつけたのです。広大な極相となるそれらのシイ・カシ・ナラの類はすべてどんぐりの木です。林床もまたたくさんの低木草花と小動物の生息し、極相の森はひとの生活とどこまでも密着していました。

 現在都市に残っている緑は、それら極相林でも途中林でもありません。都市づくりは植生とは相反する方向で進められてきたと著者はいいます。ただ寡少となったとしても、極相林のような自然林はその地域を象徴する緑であり、地方都市にはそうしたその町を象徴するような森をもつものがいくつもあります。

 東京でも皇居をはじめ明治神宮、浜離宮、六義園、自然教育園など、規模をもった緑があり自然林にちかい様相を示すものもあります。たとえばそれらのスダジイ林としての自然林要素の割合は、37%-57%とみられています。もともとこれらの群生は、地域としての極相をふまえた上で計画的につくられたもので、数少ない好例とみるべき緑地です。

 なかでも明治神宮は、荘厳な杉林をという意見を押し返して、極相であるシイ・カシなど照葉樹を植えて「永遠の森」をめざしたのです。80有余年後の今日、域内一帯は自然林とみなされています。この成功例はひろくこれからの都市づくりの課題です。住宅地や工場団地をつくるのも同じです。

 わたしたちが緑地・緑化というとき、これまでの効率的な植樹配置という視点ばかりでなく、その原理的なものとして、地域における極相林の復元という視点をきちんともつべきでしょう。原生林は望むべくもありませんが、かぎりなく自然林という存在は、わたしたちの生命になにか大切なものをかならずつなぎとめてくれるはずです。(07.03.29)

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グレン・グールド「モーツアルトのピアノソナタ集」

 カナダのピアニスト、グレン・グールドの演奏にはじめて触れたのは、ずいぶん昔のことです。およそ音楽にかかわりがなかったわたしが、ステレオ(昔はオーディオをこう言ってました)を買い込んだのを機に、何枚目かのLP(レコードのことです)として入手した時、偶然、グールドのモーツアルトピアノソナタ集と出会ったのです。

 偶然というのは、LPのジャケットの絵が気に入ったからです。全面ベージュの中央に消え入りそうに色うすくモーツアルトの肖像が配置され、すぐ頬のところからオオタカ(たぶん)が羽をひろげて飛んでいるのです。

 現在LPはもちろんなく、出ているCDのジャケットにはそのデザインが踏襲されていますが、ちいさすぎてインパクトに欠けます。ともあれこのベージュのオオタカのジャケットがなかったら、わたしはグールドを求めませんでした。彼と接する機会はきっとずっとおくれたはずです。

 そうして針を降ろし、なにげに聴いたときの衝撃は途方もなく大きなものでした。とくに有名なピアノソナタ第11番イ長調K.331 トルコ行進曲付きにはただ圧倒され、いく晩となく聴きつづけました。(どうしたらこんな音がするんだ)

 グールドがどちらかというと金属音の目立つようなビアノを好んで弾いていたことは有名な話ですが、モーツアルトも例外ではありません。やわらかさがないかわりにカチっとした音になっています。そしてそれをとくに驚くほどゆっくりと弾くのです。正確なタッチでただ正確に、いわば淡々と弾くのです。

 これを淡々というのは不適当かもしれません。淡々というには迫ってくる勢いが尋常ではないからです。逆にいった方がいいかもしれません。たいていのピアニストはモーツアルトをかならず軽やかにひくのです。軽やかだからしぜん速めになるのです(K.331の場合です)。そしてひとによっては情感をいっしょに刻み込むのです。

 グールドは情感ということとは無縁です。ですが情感を極力拝した演奏というものは、譜面に忠実な演奏というわけではありません。譜面に忠実ということはやはり軽やかなスタイルで弾くことになるでしょう。当時の文献をみても、それが作曲家モーツアルトの本意であったに違いありません。

 その点でグールドの演奏は奇抜なものです。事実、当初からいろいろ批判にさらされ、いくらなんでもやりすぎさとか、きっと可能性の実験なのだとか、著名なモーツアルト弾きからは「せっかくの才能なんだからもつ少し普通に弾けばいいのに」といわれています。

 それでも、わたしは(わたしだけでなくたいていのグールドファンは)、淡々と軽やかさと情感を排して弾いているからこそ、かえって軽やかにかえって感情ゆたかになっているのだと感じるのです。そうでなけばこの音を聴いて、なぜたましいのようなものをこうもゆすぶられるのか、その理由がわかりません。

 ひとつだけはっきりしていることがあります。グールドの音は、大きな音はそれなりに、小さな音でもやはりそれなりにカッチリ聞こえます。ここがグールド以外のモーツアルト弾きとは、一つおおきく違うところです。軽やかに弾くということはひとにもよりますが、小さな音はほとんどかき消されていくということです。それは全体の構文のなかでは当然のこととなのでしょうが、当然と思わないひともいます。グールドがそうであって、わたしと世界のグールドファンがきっとそうなのです。

 ひるがえって、グールドは端倪すべからざるJ.S.バッハ弾きでもありました。わたしもその後グールドのバッハに傾倒していきましたが、バッハはバロック音楽を集大成したひとでもあります。グールドはそのバロックのポリフォニー(複旋律音楽)を意識して弾いています。その意識はバロック以降の音楽でも密接なかかわりがあります。モーツアルトも一緒です。

 グールドは、つまりポリフォニーの高音部と低音部をひとしく弾くように、大音量も小音量もひとしく弾くのです。ひとしくとはカッチリ聞き取れる音量を確保するということを意味します。それがグールドがモーツアルトで行なったことでしょう。異端といわれてもモーツアルトのK.331のピアノソナタが、細部までカッチリと聞こえ、なおひとを揺さぶる力をもつのは、おそらくグールドが意識し意図もしているポリフォニーの感性といったものがなすところでなのでしょう。

 ちなみにこのピアノソナタ全編には、グールドの有名な鼻歌もしっかり聞こえます。唸りながら、背を折り曲げあるいは伸び上げたりしながらピアノをたたいているグールドの姿は、コンサートを見なくともひとの目の中に印画紙のように焼きつきます。(07.03.30)

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白川 静「常用字解」

 「字統」「字通」の著者、白川 静の「常用字解」は、常用漢字1945字の漢字典です。「字統」「字通」でも基本的な視点は共通ですが、コンパクトにまとまっている分、座右においておくことに煩雑がありません。

 ことばというものはどんなものであれ、意味です。意味そのものがあってことばがあり、事物と事象があります。

 ただ、その意味が、つねに正しくあるいは時代と場所、立場に適切であるかどうかは、かならずしも明確なのではありません。おそらく現在、普通に書かれる文章をきちんと読み取る、あるいは書き下ろすときに、漢字や日本の古語、またもととなる英語の原義などを調べた上でないと、きちんと読めない、書けないということがよく起こります。

 たとえば、権利ということばは、明治以降に英語の right を訳したものですが、当初は権理とか権義とか訳されました。文明開化はつまり西欧文明の基本的用語を日本語化することから始まっているのです。いつのまにか権利で定着して今日に至っているのですが、right の原義は、権利という意味のほか、公正とか正義とかいう強固な意味をもっています。

 これはドイツ語でも同様です。これを権理とか権義とか訳そうとした理由も分かりますが、権利として敷衍したとき、利することという意味がより強く付帯した事実はまぬかれません。利ということばは日本の古語では利く(効く)という意味をもち、右利きなどのことばはそこからきています。

 しかし利はその後、利己主義とか利益とか功利とか、ひとを利するという私利私欲につながる連想もひきおこし、権利の主張は当然のことでありながら、正当でない場合もあるような錯覚をもたらすこともあります。これは公正とか正義とかいう意味が並存していれば起こらないはずのことでしょう。

 同じことが漢字でも起こります。もともと漢字も輸入したものですから、日本の古語との意味の一致は難しいのですが、誤解が生じるのは困ります。それより当たり前のようにつかっていることばの意味を、まったく知らなかったというのも、ちょっと背筋がのびてしまいます。

 たとえば「庶」ということばは、台所の屋根になべと火という形の組み合わせで、煮る、とくごった煮を煮ることから「おおい、もろもろ、ねがう」という訓(意味)をもちます。ねがうの意味は別として、おおい、もろもろは、「庶務」が「いろいろなつとめ、仕事」であり、「庶民」が「もろもろ(一般)のひとたち」であることと説明されてはじめてよくわかります。

 また、「公」は古来から「ム」がわたくし、「ハ」は背のこと、したがって「公」はわたくしに背をむける、つまり「わたくししないこと」を意味すると説かれています。これは、「韓非子」「「説文」に記されていたために疑うひともいなかったのですが、「字解」はこれを甲骨文字・金文を知らなかった時代の推測であり、正しくは「広場をあらわす口の上部に、左右の塀を二本線で示したもので、公務を行なう広場という意味」とします。

 その通りでしょう。ただ紀元100年の説文以来2000年にわたって「公が、わたくしに背く」と解されたのは、偶然にしても意味としてはきわめて道理が合っていたという証拠でしょう。ことばというのはやはり生きものなのです。

 ちなみに「自由」は、(自ら)みずから、(由)よる、という意味です。これは freedom と liberty の訳として、福沢諭吉が仏教用語からとってつけたものです。自由の前の仮の訳語は「御免(ごめん)」だったようです。これは御免でなく自由であって正解でした。(07.04.02)

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原ひろ子「子どもの文化人類学」

 筆者は文化人類学を「現実の社会に入りこんで実地調査を行なって得られる資料を基礎としている」学問と定義しています。「子どもの文化人類学」は、筆者がカナダのヘアー・インディアン、インドネシアのジャカルタ・アスリ(イスラム教徒)、バングラディシュなどの実地調査を行なった報告書というものですが、内容はいくつもの新しい視点、深い洞察、また現代の日本という国への鋭い示唆にあふれています。

 とくに終章の「文化の中の教育」その1、その2、その3は、ヘアー・インディアンの実態について、「教える(教育)」ことの本質ならぬ「学ぶ」ことの本質はなにかという、一つの答えを提示しています。

 つまり、かれらヘアー・インディアンの世界には「学ぶ learn」ということばはありますが、「教える teach」に相当することばありません。子どもたちに「英語はだれに習ったの」と訊いても「自分でおぼえた」という答しか返ってきません。「どういうふうにしておぼえた」と訊くと、「そりゃあ、しゃべってみるのさ」と答えます。

 それは猟の仕方についても皮のなめし方についても、同じことです。筆者は折り鶴を折りかたをおぼえていく、ヘアー・インディアンの子どもたちの姿をこう記録しています。

 「私がなにげなくおしゃべりしながら、折り鶴を折っていると、10歳前後の子どもたち(女の子が多かったのですが、男の子もいました)がとてもおもしろがりました。そして『もう一つ折ってくれ』と何度もいうのです。何羽も折っているうちに『紙をちょうだい』といって、自分で一生懸命折り始めました。けっして、はじめにどうするの、などと聞いてきません。もっとゆっくり折ってよ、とも、これでいい?、ともいいません。もちろん教えてよ、などとはいいません。

 いろいろやって、自分でこれでできた、と思うときに私のところに見せにくるのです。そして私がきれいね、とか、遠くまで飛びそうね、とか感想をいうと、楽しそうに聞いています。そしてかれらは、『ひろこがつくったので、自分もつくった』と思っているのです。『ほかになにかつくれる?』と訊いてくるのは、自分で何羽も折ったあとです。けっして、こんどは違ったものを教えてよ、とはいいません」

 ちなみにアメリカ人の子どもは、二、三羽仕上げるか仕上げないうちに、ぼくも折っていい?、どうやって折るの?、次はどうするの?、もっとゆっくりやってよ!、はやすぎるよ!、とかいうそうです。自分のペースに相手を引き込もうとするのです。ヘアー・インディアンの子どもたちは、相手のペースに自分をあわせようにしているのと対照的です。

 文化人類学や社会心理学でいう社会化(socialization)とは、ひとがその社会の様式を学び適応していく過程のことですが、その文化のなかに産みこまれる(be born into) とき、ひとはただ受動的であるのではありません。人類学者クローバー(A.L.Kroeber)は「子どもはそこで自発性を発揮して、その文化的伝統を自分で拾う」のだといっています。そこにひとりひとりの個性もあるのです。しかも乳児のときから。

 現代の脳科学と認知科学は、「ひとの子の想像を絶する高い能力」を明らかにしつつあります。たとえば、ひとの発したことば、母国語、音声や音の音質・高低などの違いは、産まれる数週間前から聞き分けることができます。産まれてからは、ひとのことばであるなら、音の連続を音節に区分して明らかにことばとして認識しています。それは音を再生産していることにほかなりません。

 また、産まれたばかりでも、段差の危険を察知して、自分の動きをとめるという能力など、生得的な能力は「随伴性探知」といい、「新生児は、外からの刺激を一方的に受け止めるだけの存在でなく、自分の方から積極的に環境に働きかけていて、しかも自分の働きかけと、それに伴ってもたらされる反応を結びつけて、ある種の仮説をたて、次の働きかけでそれを検証しさえするのである」と総括されています。

 自発性を発揮して、その文化的伝統を自分で拾う、という「学ぶ」能力は、ひとの自然かつ先天的な能力であり、ひとはその能力をもって、みずから選んで取り込み、成長していくのです。外から与えたれただけで、取り込まれることがなかったらなんにもなりません。

 教えるということばがなく、学ぶということ、自分で覚えるということだけがあるという、ヘアー・インディアン世界には、この「文化的伝統を自分で拾う」とういう自発性が、たしかな明示的なものとして存在します。逆にいえば、いわゆる教育によってひとは、とくに子どもは育ちません。教育とはつまるところ知識や実技を体系的に取りこむようレッスンまたトレーニングすることです。知識と実技以外のこと、つまり良識とか良心とか社会的責任感とか、そういうものは、子どもばかりでなくおとなでも、教育訓練というかたちだけではもれてしまうことがあるのです。教えるのでなく学ぶという、ひと本来の自発性によってそれらを拾いあげ、取り込むのでなければ身になりません。(07.04.04)

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レイチェル・カーソン「沈黙の春」

 「私たちの世界が汚染していくのは、殺虫剤の大量散布のためだけではない。私たち自身のからだが、明けても暮れても数かぎりない化学薬品にさらされていることを思えば、殺虫剤による汚染など色あせて感じられる。たえまなく落ちる水滴が、かたい石に穴をあけるように、生まれおちてから死ぬまで、おそろしい化学薬品に少しずつでもたえず触れていれば、いつか悲惨な目にあわないともかぎらない。

 わずかずつでも、くりかえしくりかえし触れていれば、私たちのからだのなかに化学薬品が蓄積されていき、ついには中毒症状におちいるだろう。いまや、だれが身を汚さず無垢のままでいられようか。外界から隔絶した生活などかんがえられこそすれ、現実にはあり得ない。みんなはみずから禍いを招いているのだ。自分たち自身で自分のまわりを危険物で埋めている。おそろしい死を招くようなものを手にしているとは、夢にも思っていない。
 (略)

 川からは魚が姿を消し、森や庭先からでは鳥の鳴き声も聞かれない。だが、人間そのものは? 人間は自然界の動物とは違うのだ、といくら言い張ってみても、人間も自然の一部にすぎない。私たちの世界は、ひどく汚染している。人間だけ安全地帯に逃げこめるだろうか。
 (略)

 鳥が帰ってくると、ああ春がきたな、と思う。でも、あさ早く起きても、鳥の鳴き声がしない。それでいて、春だけがやってくる・・・・・それは沈黙の春であった」

 レイチェル カーソン「沈黙の春(1962)」からの抜粋です。

 彼女の言葉には、いまみても濁りがありません。テーマである農薬へのアンチテーゼのみならず、はっきりと化学物質の横溢そのものへの不信を表明しています。そしてそのために、出版の直後から、ありとあらゆる非難中傷が、全米の農薬会社から浴びせられました。雑誌「タイム」でさえ、「民衆を恐怖に陥れるために、感情を煽るような言葉を用い」、「論調は不公平で、一方的でしかもヒステリックである」、「農薬がどこかで水に入れば、あらゆる場所の水が汚染されるというが、根拠がまったくない。非科学的で馬鹿げた話というほかない」と書いたのです。

 その後、「世紀の農薬」DDTは、汚染源から数百マイルの外洋で発見されています。これらの非難中傷は、翌1962年5月、大統領科学諮問委員会の農薬委員会の報告書「農薬の使用」の公表により終息に向いました。報告書の主旨は、「私たちは、農薬の使用にともなう危険性を正確に評価する十分な知識を持ち合わせていない。そしてこれら毒物は、使用に供せられる以前に、その安全性が確かめられなければならない」といい、レイチェル・カーソンの主張を公式に認めたものです。ちなみに時の大統領は、かのJ.F.ケネディでした。

 化学物質への疑義・否定というものに対する、社会からの一般的な反論が、「非科学的」と「恐怖を煽る」と「ヒステリー」であったのは、40余年後の現在でも留意しておかなければなりません。その後もこうした不条理がくりかえされてきたという事実があるからです。斯界の反論の口調も、「危険性が合理的に実証されないかぎり、使用して差しつかええない」というものです。危険性が実証されてからでは遅いのです。そういうことはいま誰でも知っています。

 結果としてレイチェルカーソンの「沈黙の春」は、世界を動かし、環境問題という最大のテーマを人々の視座に据えました。それは1960年代の画期でしたが、それでもその後の歩みは遅々としたものでした。

 ローマ・クラブ「成長の限界〜人類の危機レポート〜」の発刊が1972年、 ストックホルム「国連人間環境会議」開催と「人間環境宣言」も1972年、ワシントン条約(野生生物の国際取引規制)が1973年、ロンドンダンピング条約(海洋投棄・洋上焼却規制)が1975年、モントリオール議定書(フロン等規制)調印が1987年、リオデジャネイロ「地球サミット(国連環境開発会議)」と「リオ宣言」は1992年、ISO14001環境マネジメントシステム発行は1996年、気候変動枠組条約COP3「京都会議」が1997年のことでした。

 日本でも世界でも、ほんとうの意味で地球環境問題が産業・企業の問題、すなわち民間、一般の人々の問題とになったのは、やっと1996年〜1997年ころからなのです。「沈黙の春」から35年が経っていました。それを振り返ると、わたしたちは、あまりに遅い歩みしかしてこなかったことに暗澹とします。(07.04.16)

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白川 静「字訓」

 「字統」「字通」の著者、白川 静「字訓」は、古語辞典ですが、いわゆる古語辞典そのものではありません。「漢字を国語の語義にあわせてよむことを『和訓』といい、その訓を『字訓』という」と著者はいいます。それはまた国語の語義を漢字であらわすということであり、そのため字訓は、「国語の展開・発達の上で深くかかわるものであった」ともいっています。

 秀逸なのは、それぞれの字訓の原義と意味を、膨大な古典文献によって導き、思わぬことばの本体をあらわにしていることです。

 たとえば「『ひと(人)』は、もと一人の人をいう。特定の人をいう語から、のち人間一般をいう語となった。数の『ひとつ』の『ひと』と同源であろう」

 ところが人にはもう一つの意味があります。
 「『ひと(他人)』は、他人をいう。『ひと』の原義は他人であり、客観的には自己をも意味し、その自他を合わせて、のち人間一般をいう語となる。下に体言をつけ、「ひと妻」「ひと国」「ひと言」のようにいう」とあります。

 私たちは、ことばを無意識につかっていますから、この「ひと」の重層した意味をはっきり意図してつかってはいません。ですが、無意識といえども深層では承知しているはずです。それが、たとえば個人主義などということばにどうにも馴染まない理由ではないかと疑ってしまいます。個人主義をどうしても利己主義と類似のことばと感じてしまうのです。

 ひるがえって「ひと」がそもそも他人のことであり、のち自他をあわせていうことばとなったのなら、「ひと主義」ですべてよいことになります。子どもの学問も、要するに「ひとをひととして尊重すること」を学ぶことで、他人を尊重することが、そのまま自己を大事にすることだと分かります。他人が先にあることにも大きな意味があるでしょう。民主主義も倫理道徳も一つことばですむというものです。

 もう一つ、「『な(名・称・号)』は、人の名。またものの名をもいう。その名で伝えられている評判は名声をいうこともある。古い時代には、名は実体と相即不離のものとされ、名を知られることはその実体を支配されるおそれのあるものとして、容易に名を明かさぬ習俗があり、また実名を敬遠する俗があった。実名を「いみな」、よび名を「あざな」という。名をいうことは男に対しては女が許すことであり、長上に対しては一種の服従儀礼を意味した」といっています。

  ことばというものは言霊ともいい、きわめて重いものだったのです。それはしかし古代だけのものでししょうか。現代でもその本質は変わりないのではないでしょうか。

 「ことばには霊があって、ことばとして述べられたことは、その霊のはたらきによって、そのまま実現されるという観念があった。ことばにはそういう呪能があり、『ことあげ』『ことだて』『ことどい』『ことほぐ』『ことむく』などはみなその観念を含む語である」

 実現はともかく観念的にそのことばにとらわれるということはあるでしょう。ほかのところでも述べましたが、権利ということばのもとは、英語のrightです。rightには正義・公正という概念が堅固にあります。それを抜きで権利と訳したときから、権利の要求は正義とか公平とかという観念から遠いものとなりました。近代の誤訳です。(07.04.17)

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