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民主党「日本国教育基本法案」にはみるべきところがある



民主党「日本国教育基本法案」にはみるべきところがある

 とくに前文がよい。意図があり格調もある。
 江戸初期の日本陽明学の祖、中江藤樹は「時処位*」ということをいっています。時代と国と状況=ポジションのことです。
 「道と法とは別なものである。道は聖人のなかったときもすでに行われている。法は聖人、時処位に応じてつくり、その代にあって道に配した。時処位替われば、用いがたきものもあり、合わざる法を行えば、かえって道に害となる」
 いま、道は、理念にもとづく社会、環境、経済のありかたであり、法は憲法と法律にほかなりません。

 *時処位:日本陽明学開祖の中江藤樹が「翁問答」で提起した知行合一の指針
 (→ことばの意味)


 教育基本法を替えるに当っては、いま現在がどういう状況であり、なにが足りてなにが足らないかを、まず明らかにしなければなりません。
 その点で、民主党「日本国教育基本法案」には、政府「教育基本法案」にはない、中身のある前文が提示されています。日本国と頭につけたのもよい。

 「心身ともに健やかな人間の育成は、教育の原点である家庭と、学校、地域、社会の広義の教育の力によって達成されるものである。また、日本国民ひいては人類の未来、我が国及び世界の将来は、教育の成果に依存する」
 出だしのこの文章の頭に、「いま」ということばを添えれば、これがまさに法を改正する時処位であることがわかります。
 それはつづく文がなくとも、これから後の必要と目的そのものも指示します。すなわち、家庭と、学校、地域、社会という、どれもが必要であり、どれもがいま、まともに機能していないのです。

 もっとも重要な家庭の教育も、すでに壊れてしまっています。そもそも子どもによき教育を与えるべき親自身がよく教育されてこなかったのです。
 国と行政は、重大な責任があります。親ができなければ、国も行政も肩代わりするくらいの覚悟がなければなりません。
 教育の本質は、知識ではない、才能でもありません。それらは二次的な重要物です。

 幕末の志士、真木和泉は、
   「節義は例えていわば人の体に骨あるごとし。骨なければ首も正しく上にあるを得ず、手も動くを得ず、されば人は才能ありとても、学問あるとても、節義なくては世に立つことを得ず。節義あれば、不骨不調法にても、士たるだけのこと欠かぬなり」
   といいました。士は人とよみかえてよい。

 へーゲルは「教育とは人間を倫理的にならしめることである。教育学とは人間を倫理的にならしめる技術である」といいました。どんな才能も学問もこころの内が真っ直ぐでなければなんにもなりません。

 それでも道徳とか倫理とかいうと、いまという時代にそぐいません。わかりにくいのです。しつけとかいったほうが早い。修身というほうがまだましな気がします。
 要は権利よりさきに義務でなければならない。人にも子どもにも、暮らしていくには身を正してやること、正しいこころとかたちがなければならないのです。


 勝海舟が福沢諭吉をなじった弁があります。
 「人を教育するのに権利の方向から小理屈ばかりならわせてどうするのだ。
 教育家というものは、すべからく義務から先に教えて、人間の土台が建ちあがってから、あとはいわずとも土台の上に家の建つことは察しのつくものだ。
 故に義務ということから十分承知できれば、権利ということは自然に悟られるものである」

 昭和二二年の現行教育基本法も、その時代の時処位に応じていました。
 「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」

 高邁な理念です。戦後日本はこうしてスタートしました。ただ、家庭と、学校、地域、社会は、それなりに機能していました。その後の日本がこころのもちようとして、これほど荒廃するとは思ってもみなかったのです。ちなみに政府案にはこうした時処位はみじんもありません。

 総じて、自由とか権利とか主体性とか、これまでの合言葉は、どこかでとっくにつまづいているのです。それ自体より、支持基盤がゆらいでいるのです。愛国心をめぐる議論もありますが、はずれています。
 しいて言えば、これも民主党案の「日本を愛する」でよい。いまのきもちにぴったりきます。国を愛するというとどこか違います。
 国語もそうです。日本語といえばいい。国語教育というより日本語教育というほうがよほどすっきりします。日本を愛する、日本語を愛する、日本の国の人たちを愛する、それでいいのです。ほんとういったら涵養する必要もありません。

 日本を愛するという情操が、いまの世の中に感じられないのは、そういう涵養がなかったからではありません。わたくし(私=自分)だけを愛しているからです。いまの子どももその親も、ひとしく自分だけがかわいい。多くの人たちにそれが蔓延してしまったから、荒廃の今日があるのです。

 自分だけを愛するのは、完全な利己主義です。人のことはどうでもいい、となりで誰か死んでいってもなんとも思わない。そんなむしばまれかたをした感性が、日本を愛するでしょうか。このゆかしく美しい水と緑の国を愛せるでしょうか。

 むかしから克己、ということをいいました。自分に克つ(かつ)。わたくししないということです。見返りを求めないこと、私心・私欲を捨てることです。
 かって、公に生きる人間には、世の中がそう要求したのです。そういう人があちこちにいたから、その背中をみて子どもは育ちました。
 いま、そういう公人はどれだけいるでしょうか。政治家はどうか、役所はどうか。病院や学校ではどうか。


 意外に思うかもしれませんが、利潤を目的とする企業がそういうことをはじめています。CSR(企業の社会責任)への取り組みです。そこでの経営者の資格は、第一に誠実なことです。才腕も知見もあるにこしたことはないが、それらがあっても人が不誠実なら、そもそも会社の将来を危うくするからです。
 会社が公器である時代です。それが今日という時代です。企業は時処位に気づいています。

 公の組織である学校ではどうなっているでしょうか。この際だから、民主党案の「日本国教育基本法案」をなぞって、教育の原点に立ち戻ってはどうでしょうか。
 さしあたって義務教育の場から(家庭はあてにしないという気位で)、「わたし(先生)の背中をみて育ちなさい」というスローガンは成り立たないでしょうか。

 そうなったらなったで、心機一転、そういう教育にまい進していく先生が続出するかもしれません。そういう素地はいまの日本にはまだあるのだと思います。動機付けがされてこなかっただけですから。そのとき、まさに「君子は豹変する」のです。日本もまだ捨てたもんではない、と胸をはることができるでしょう。家庭、地域、社会が、納得してみまもるということが条件ですが。

 ともあれ、いい機会ですから、民主党案「日本国教育基本法案要綱」を、いちどはながめてみるとよい。
 文章はよく練られているようで、ほかにもたとえば「心身ともに健やかな人間の育成」という文章があります。健やかさというのは、こころとからだをいうのだといっている。単純でわかりやすい。
 政府案は第二条一で、「豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養う」と述べている。わかりにくい。
 そもそも健やかというのは心身一つのものをいうのです。からだを病んでもこころを病んでもひとしく不幸なのです。無口な子どもも、腰骨をたて、姿勢が正されれば、はきはきと挨拶するのかもしれません。

 「個人や社会に起こる不条理な出来事に、連帯して取り組み、公共の精神を大切にする人間に」云々というあたりも、時処位の視点でよい。
 不条理とは、社会の機能不全から起こるのであり、それらへの取り組みも人としての務めです。もちろん国と行政、地域と地域にある企業の義務でもあります。

 義務というのが重かったら、社会からのひらいた要請であり、それへのできる範囲の対応とか配慮です。世の中のためにしようか、という気もちがなにより大切なおです。
 知行合一。子どもを正すためには、まわりのひとりひとりが残らず、自ら正さなければなりません。
--------------------------------------------------(2006.6. Y.Shimizu)
          
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